
この記事では、上記の質問にお答えします。

本記事の内容
- 『歎異抄』読む前に
- 『歎異抄』あらすじ
- 『歎異抄』感想
- 『歎異抄』まとめ
『歎異抄』をザックリ説明すると…
なむあみだぶつ…と、念仏さえ唱えれば、人はみな身分にかかわらず極楽浄土に往生できます。アラフォーの年齢に達した唯円(というお坊さん)が、晩年(80歳代)の親鸞(という浄土真宗を作った偉いお坊さん)の語った言葉を回想しながら書にしたためた仏教書。
そんな感じです。
この記事では、親鸞(しんらん)の教えを説いた『歎異抄(たんにしょう)』を、分かりやすくご紹介します。
『歎異抄』は、鎌倉時代の後期に書かれた日本の仏教書です。仏教の派閥としては、大乗仏教の浄土真宗。
作者に諸説ありますが、本記事では親鸞の弟子である唯円(ゆいえん)とします。親鸞が亡くなった後、教団内では親鸞の教えをねじ曲げて布教する異端派が続出しました。本のタイトルは、唯円が、そのような異端の教えを嘆いていることに由来します。
内容をサクッと知りたい方は「読む前に」と「あらすじ」だけを読めばオッケーです。作品の前提知識がチェック出来たら、ぜひ原書を読んで下さい。
それでは、行ってみましょう。
『歎異抄』読む前に
ちょっと難しく感じる作品(特に古典作品)を読む場合、原書を直接読む前に、ある程度の予備知識を持っておくことが重要です。
古典はむずかしくてよく分からない・・・、と思われがち。ましてや、古文で書かれた仏教の教えときたら、なおのこと。優れた作品とはいえ、文化や時代が異なると、内容をすぐにイメージ出来ない場合があります。
イメージ出来ない理由は、読者の頭の中に作品の時代背景や常識などの前提知識が不足しているからです。とはいえ、700年の時間をパスして、現代にも読み継がれる作品には人間の普遍的な真理が描かれています。
古典のコスパ最強です。ただ、7世紀もの時間が経過すると、さすがに現代の感覚とのギャップが生まれますよね。
そこで、そんなギャップを埋めるために「基本情報」をお役立てください。
この記事では、作品の基本情報、著者の略歴、時代背景などを簡潔にお伝えします。
ちなみに、書籍という文章コンテンツが読みにくい場合、オーディオブックや映画など、その他の関連コンテンツに触れることもおすすめです。
基本情報
作品名 | 歎異抄 |
著者 | ・唯円(1222ー1289)享年67歳 ・親鸞(1173ー1264)享年91歳 ※唯円が40歳代の頃、親鸞の教えを文章化したとされる |
出版国 | 日本(鎌倉時代) |
出版年 | 鎌倉時代後期:1287ー1290(推定、親鸞没後25年頃) |
執筆時の年齢 | 唯円、65歳頃 |
分量 | 94ページ |
ジャンル | 仏教書 |
電子書籍 | ○:Kindle |
オーディオブック | × |
関連コンテンツ | ○:映画 |
同世代の作家/代表作 | ・作者不明『平家物語』(1240年頃か)、鴨長明『方丈記』(1212年 |
時代背景
『歎異抄』の発刊は、1280年頃。鎌倉時代の後期、親鸞の没後25年と言われています。
当時の政権トップは北条時宗(8代目将軍)。主なトピックスは元寇(げんこう)。モンゴル帝国が2度にわたり日本侵略(九州北部)してきたやつですね。天皇は後宇多天皇(第91代・就任期間:1274ー1287)。
外圧、価値観が揺さぶれる混乱の時代。この頃、親鸞没後20年以上の時間が経過しています。親鸞が広めようとした浄土真宗の教えが、正しく伝えられていませんでした。
このような状況で『歎異抄』は人々に読まれました。
著者の略歴
作者に諸説ありますが、本記事では親鸞の弟子である唯円(ゆいえん)とします。
著者の唯円(1222ー1289)は、常陸国(現在の茨城県水戸市)の生まれです。親鸞の晩年になってからの弟子の一人。晩年は大和国吉野、現在の奈良県で布教活動を行っていました。
著者の親鸞(1173ー1264)は、浄土真宗の宗祖です。宗祖とは、その宗教を作った人のことです。親鸞また、法然という師匠を持ち、日々、極楽浄土の信仰についての思想を深めていた宗教家の1人でした。

『歎異抄』あらすじ
作品を楽しむために必要なあらすじは、
- 商品レビュー
- 舞台設定(時代・場所)
- 登場人物(関係性)
の3つくらいです。
その他、作品独自のルールやテーマなどがあればおさえておきます。
むしろ、あらすじを読みすぎると「読まなくても分かった気になる」という危険性もあるので注意しましょう。
商品レビュー
数多い仏教書の中でも「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」といった『歎異抄』の文言ほどわれわれに耳近いものはあるまい。親鸞滅後、弟子唯円が師の言葉をもとに編んだ本書には難解な仏典仏語がなく、真宗の安心と他力本願の奥義が、和文によって平易に説かれている。段ごとに大意を付した。
引用:Amazon(商品説明)
商品レビューは、コスパの高い文章です。本を売るために書かれた文章だから、ムダが少ないです。
読者の興味を引くように端的にまとめられています。
商品レビューは、あらすじの「超概要」をつかむのに有効です。
舞台設定(時代・場所)
時代は、鎌倉時代後期(1280年頃)。
場所は、平安京(現在の京都ですね)。
ちょっとしたことですが、作品のロケーションを地図上でイメージしておくと便利です。
高齢の親鸞は、京都で過ごしていました。京都の地で、親鸞は唯円に浄土真宗の教え説いていました。
こういうイメージって意外と大事です。
登場人物(関係性)
『歎異抄』の登場人物は、これがすべて。
唯円が親鸞の教えを回想しながら、コツコツ書き留めたのが『歎異抄』。異端を、嘆き、抄録、にまとめたのでしょう。
まさに『歎異抄』です。
この登場人物の相関図をメモや付箋代わりに、途中、チラ見しながら読書することをおすすめします。
また、イメージを補強する手段として、オーディオブックで作品を楽しむ場合にも、この登場人物の相関図は重宝します。オーディオブックは「返り読み」には不向きであるため、前提条件や設定を振り返るときに役立ちますよ。
『歎異抄』感想
ここからは、引用を絡めた個人的な感想です。
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとにつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。
引用::金子大栄校注『歎異抄』(岩波文庫)p45
「悪人正機」の教えですね。善人ですら救われるのだ。ましてや、悪人が救われないわけはない、と。
この引用部分は、親鸞が説いた教えで、もっとも誤解を受けやすい部分。「悪人正機」の教えは、深すぎで文書で定義するのは難しく、危険ですらあります。
「この教えがオッケーなら、悪いことをしてもいいよねー」
と考えるヤカラが出てきます。皮肉にも、異端派の存在があるゆえに、正統派が強調されるわけですから。
これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし
引用::金子大栄校注『歎異抄』(岩波文庫)p66
人間の意志はあてにならないもの。
この引用部分は、親鸞から唯円に次のような教えを説いています。人間とは、性格の良し悪し、あるいは、自分の意志によって、殺人をするわけではない。状況によって、人は一人さえも殺せないこともあれば、苦もなく千人殺すことがある、と。
つまり、人間の意志は環境に依存しているわけです。
そう言われてみると、自分の決めたことって、自分以外、何かに影響を受けているような…。自己決定や自己責任って言いますが、「自分で決めた」の「自分」の実態とはどこにあるんでしょうか。
『歎異抄』まとめ
最後に、本記事の内容、
- 『歎異抄』読む前に
- 『歎異抄』あらすじ
- 『歎異抄』感想
の3つをサクッと振り返ります。
まとめ①_読む前に
原書を直接読む前に、ある程度の予備知識を持っておくことが重要です。優れた文学作品とはいえ、国や時代が異なれば物語の内容をすぐにイメージ出来ない場合があります。
その理由は、読者の頭の中に作品の時代背景や常識などの前提知識が不足しているからです。
書籍という文章コンテンツが読みにくい場合、オーディオブックや映画など、その他の関連コンテンツに触れることもおすすめです。
作品名 | 歎異抄 |
著者 | ・唯円(1222ー1289)享年67歳 ・親鸞(1173ー1264)享年91歳 ※唯円が40歳代の頃、親鸞の教えを文章化したとされる |
出版国 | 日本(鎌倉時代) |
出版年 | 鎌倉時代後期:1287ー1290(推定、親鸞没後25年頃) |
執筆時の年齢 | 唯円、65歳頃 |
分量 | 94ページ |
ジャンル | 仏教書 |
電子書籍 | ○:Kindle |
オーディオブック | × |
関連コンテンツ(映像) | ○:映画 |
まとめ②_あらすじ
・商品レビュー
数多い仏教書の中でも「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」といった『歎異抄』の文言ほどわれわれに耳近いものはあるまい。親鸞滅後、弟子唯円が師の言葉をもとに編んだ本書には難解な仏典仏語がなく、真宗の安心と他力本願の奥義が、和文によって平易に説かれている。段ごとに大意を付した。
引用:Amazon(新潮文庫版の商品説明より)
・舞台設定(時代・場所)
時代:鎌倉時代後期(1280年頃)
場所:平安京(現在の京都)
・登場人物(相関関係:図参照)
・唯円(1222ー1289)
・親鸞(1173ー1264)
40歳の唯円が、80歳の親鸞の説教を受けるような感じですね。親鸞没後20年に書かれた本ですから、執筆時の唯円は60歳くらい。
唯円が親鸞とのやり取りを回想する形で、各話題(教義)が展開されます。
まとめ③_感想
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとにつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。
引用::金子大栄校注『歎異抄』(岩波文庫)p45
クリアカットできない善悪思想…
『歎異抄』の悪人正機の教えは、万能な教義ではありません。
「善い」「悪い」と二者択一的に決められるものではありません。
では、この悪人正機の教えは、誰に向けて説かれたものなのでしょうか。思うに、この悪人正機の教えは、きわめてパーソナルな部分にしか届かないように思います。
たとえば、殺人を犯した罪人Aがいたとします。
常識的(多数派)な考えでは、殺人犯である罪人Aは、地獄行きです。しかし、悪人正機説的には、違う解釈になります。
罪人A自身が、どのように感じるかです。罪人Aが、無罪であろうが、有罪であろうが、死刑宣告されようが、関係ありません。ちょっと難しく表現すると、犯した罪を主観的・実存主義的にどのようにとらえるか。
阿弥陀仏は、悪人でも善人でも救ってくれる、というのが浄土真宗仏教の大前提です。
人間は生きるというだけで、他の命を奪う「根源的な悪」をかかえた存在。
それをふまえて…
多くの人は、この「根源的な悪」に気付かない「善人」です。一方、殺人は極端な例ですが、止むを得ず罪を犯した人間は「悪」に対して自覚的な「悪人」です。
つまり、「根源的な悪」に無自覚な「善人」でさえ救われるのだから、「根源的な悪」を自覚した「悪人」が救われるのは当然だ、と。
さらに、付け足すと、「善人」「悪人」を第三者が決めることはできません。
究極的には、どのように感じるか、を個人に委ねられているからです。
誰からも理解されず、信じてもらえず、深い絶望の中にあるとき、『歎異抄』の悪人正機は、そんな時にのみ、個人の心の中にのみ、ギラリと光る教えなのかもしれません…。
紹介してなんですが、最初から原典を読むのは難しいかもです。
その場合、解説書や漫画などエッセンスに触れることも、もおすすめです。
